ペリリューにて(1)

日曜日 , 29, 4月 2018 1 Comment

  (*1) この記事は、パラオ国でJICA・ボランティアをしていた2010~2012年のものです

パラオ・ペリリュー島を訪れ、いくつかの戦跡を見てまわったとき、私は一人の詩人のことを考えていました。

もう亡くなられて30年以上ですが、石原吉郎という詩人です。
戦後、8年間シベリアで抑留生活を送り、60年代・70年代にいくつかの詩集を出版し、1977年に亡くなられた方です。
私は、今でも自分の心に迷いが感じられると石原さんの著作や詩にヒントを求めることがあります。 
石原さんから私は、「姿勢」「位置」「断念」「告発しないこと」などさまざまなキーワードをいただきました。 
「無教会派クリスチャン」という在りかたが存在する、ということを教わったのも石原さんでした。 
20代後半から30代後半まで、自分自身をそのように規定し、聖書を読み続けた日々がありました。 
石原さん自身は教会に属し、洗礼も受けておられますが、私は教会を拒み、ただ聖書を読むことにこだわりました。 20代前半まで、信仰とは最も遠い場所に身をおいていたせいか、照れがあったのでしょう。
ペリリューで石原さんを思い出したのは、石原さんの次の文章が頭にあったからでした。

「・・・・私は、無名戦士という名称に、いきどおりに似た反発をおぼえる。無名という名称がありうるはずはない。倒れた兵士の一人一人には、確かな名称があったはずである。不幸にして、その一つ一つを確かめえなかったというのであれば、痛恨をこめてそのむねを、戦士の名称へ併記すべきである。
ハバロフスク市の一角に、儀礼的に配列された日本人の墓標には、今なお、索引のための番号が付されたままである。」

        石原吉郎『望郷と海』(「確認されない死の中で」)

「死がありうべからざる、理不尽なことであればこそ、どのような大量の殺戮のなかからでも、一人の例外的な死者を掘り起こさなければならないのである。大量殺戮を量の恐怖としてのみ理解するなら、問題のもっとも切実な視点は脱落するだろう。
死はどのような意味も付け加えられることもなしに、それ自身重大であり、しかもその重大さが、おそらく私たちにはなんのかかわりもないという発見は、私たちの生を必然的に頽廃させるだろう。しかしその頽廃のなかから、無数の死へ、無数の無名の死へ拡散することは、さらに大きな頽廃であると私は考えざるをえない。生においても、死においても、ついに単独であること。それが一切の発想の基点である。」

        石原吉郎『望郷と海』(「確認されない死の中で」)


ペリリュー島の「Bloody North Ridge」と呼ばれた一帯にある洞窟の入り口に今も空を見つめ続ける対空砲座があります。
この砲座で米軍の総攻撃を待ちながら、ペリリューの海を埋め尽くす米国艦隊・上陸艇を見つめていた兵士。 彼が感じていたかもしれない恐怖や絶望・彼が思い出したかもしれない家族・彼がついに解き明かせなかった「なぜオレは敵を殺さなければならないか」という疑問・彼がついに問うひまさえ与えられなかった「なぜ奴はオレに照準をあわせるのか? 奴とオレとの間にどんな敵対関係があるというのだ」という疑問・恐怖と絶望の向こう側に見えていたかもしれない断念・・・・・そのようなことを思いながら、・・・そう、彼は「無名戦士」であるはずがない。 今私は、可能な限りの想像力で橋を架けようとしている、「そのとき」の「彼」に。それが「無名戦士」として埋もれてしまいそうな「彼」に対して、私にできる精一杯のことだから。


石原さんの上記の文章「確認されない死の中で」には、氏独特の、一般論のなかで語ることを拒み、「個」として屹立することを選ぶ氏の姿勢を感じることができます。 私もまたパラオ・ペリリュー島で、戦後60年余(*1)、ずっと空を凝視し続ける対空砲の向こう側で恐怖と絶望に震える「彼」から「無名戦士」という虚飾をはぎ、「彼」を累々たるその列からひきはがそうと試みていました。

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